帝国の重荷を一人背負う|エリザベート歴代フランツ・ヨーゼフ役(東宝・帝劇ミュージカル)

ミュージカル『エリザベート』のフランツ・ヨーゼフ一世は、シシィ(エリザベート)の夫でオーストリア帝国(ハプスブルク帝国)の皇帝。不器用で勤勉、ただひたすら国のために身を尽くしてきた人物です。この記事では歴代フランツ・ヨーゼフ役者さんと、フランツ・ヨーゼフ自身についてまとめました。

きねちゃん

ミュージカル『エリザベート』でフランツ・ヨーゼフは、まんべんなく最初から最後まで舞台に登場します。ただ一瞬出て数フレーズ歌って引っ込む・・・といったシーンが多く、その間に年月がたっているので、衣装や表情、演技がどんどん変わっていきます。若々しい青年フランツから老年の風格ある皇帝まで、変化もみどころの一つです。

東宝版歴代フランツ・ヨーゼフ

年表(年齢つき)

敬称略

読み方

  • 初、②→初:フランツ・ヨーゼフ役初、②:フランツ・ヨーゼフ役2回め、以降同じ
  • 出演時の年齢
  • フランツ・ヨーゼフ役初出演は太文字


フランツ・ヨーゼフ役
2000年 鈴木壮麻(初・39歳)
2001年 鈴木壮麻(②・40歳)
2004年 鈴木壮麻(③・43歳)
石川禅(初・39~40歳)
2005年 鈴木壮麻(④・44歳)
石川禅(②・41歳)
2006年 鈴木壮麻(⑤・45歳)
石川禅(③・41歳)
2008年~
2009年
鈴木壮麻(⑥・47~48歳)
石川禅(④・44歳)
2010年 石川禅(⑤・46歳)
2012年 石川禅(⑥・47~48歳)
岡田浩暉(初・46歳)
2015年 田代万里生(初・31歳)
佐藤隆紀(初・29歳)
2016年 田代万里生(②・32歳)
佐藤隆紀(②・30歳)
2019年 田代万里生(③・35歳)
平方元基(初・33歳)


2019年のフランツ・ヨーゼフは2人ともルドルフ経験者!
2019年のフランツ・ヨーゼフは田代万里生さんと平方元基さん。お2人とも、フランツ・ヨーゼフの息子ルドルフ役の経験者です。

田代万里生さんルドルフ→2010年公演(26歳のとき)
平方元基さんルドルフ→2012年公演(26歳のとき)

2019年の舞台に出演するトートの2人(井上芳雄さんと古川雄大さん)も東宝版のルドルフ経験者、そしてゾフィーの香寿たつきさんも宝塚でルドルフを演じていました。

鈴木壮麻(すずき そうま)

出演当時:鈴木綜馬

生年月日 1960年12月20日
出生地 東京
身長 178cm
血液型 AB型

1982~1998年劇団四季に所属。『オペラ座の怪人』『美女と野獣』などに出演。退団後は、『エリザベート』『レ・ミゼラブル』『タイタニック』『フランケンシュタイン』などに出演。『サンセット大通り』『End of the RAINBOW』では第23回読売演劇大賞の優秀男優賞を受賞。

フランツ・ヨーゼフ役で出演した年

2000年、2001年、2004年、2005年、2006年、2008年~2009年

出演時の年齢

39歳~48歳

石川禅(いしかわ ぜん)

生年月日 1964年6月22日
出生地 新潟県
身長 177.5cm
血液型 A型

東宝ミュージカル『ミス・サイゴン』の初演にシュルツ大尉役で出演。以降『レ・ミゼラブル』『エリザベート』『ダンス・オブ・ヴァンパイア』『レベッカ』『貴婦人の訪問』『笑う男』などに出演。2019年『フリーダ・カー路』、2020年の『ヘアスプレー』にも出演予定。

フランツ・ヨーゼフ役で出演した年

2004年、2005年、2006年、2008年~2009年、2010年、2012年

出演時の年齢

39歳~48歳

岡田浩暉(おかだ こうき)

生年月日 1965年10月26日
出生地 群馬県
身長 178cm
血液型 O型

26歳のときバンド「To Be Continued」としてデビュー。その後、テレビドラマ『もしも願いが叶うなら』に出演。挿入歌「君だけを見ていた」が50万枚超を売り上げ、オリコン最高順位4位となるヒット。舞台では、『レ・ミゼラブル』『TITANIC the musical 』『風と共に去りぬ』『エリザベート』などに出演。

フランツ・ヨーゼフ役で出演した年

2012年

出演時の年齢

46歳

田代万里生(たしろ まりお)


コメント映像(2015年)

生年月日 1984年1月11日
出生地  長崎県
身長 177cm
血液型 A型

東京在学中にオペレッタ、芸大在学中にオペラデビュー。2009年『マルグリット』アルマン役でミュージカルデビュー。ルドルフ役は翌年の2010年に抜擢。26歳での出演。その5年後には、父親フランツ・ヨーゼフ一世役へ。

フランツ・ヨーゼフ役で出演した年

2015年、2016年、2019年(予定)

出演時の年齢

31歳~35歳

佐藤隆紀(さとう たかのり)

生年月日 1986年2月5日
出生地  福島県
身長 180cm
血液型 O型

国立音楽大学声楽専修卒業。ヴォーカル・グループ「 LE VELVETS」のメンバー。NHKホール、オーチャードホール、大阪フェスティバルホールなどでの単独コンサートを成功させる一方、フィリピンでのCDデビューやミャンマー、ブラジルでのステージなど活動は多岐。舞台では、『エリザベート』の他、『タイタニック』『スカーレット・ピンパーネル』『キューティーハニー』などにも出演。2019年は『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンに抜擢されている。

フランツ・ヨーゼフ役で出演した年

2015年、2016年

出演時の年齢

29歳~30歳

平方元基(ひらかた げんき)


コメント映像(2019年)

生年月日 1985年12月1日
出生地  福岡県
身長 184cm
血液型 AB型

ミュージカルは2011年『ロミオ&ジュリエット』のディボルト役でデビュー(13年にはベンヴォーリオ役)。2012年『エリザベート』ルドルフ役に26歳で抜擢され、以降大きな作品に次々と出演している。2019年『エリザベート』でフランツ・ヨーゼフ一世を初めて演じる。

フランツ・ヨーゼフ役で出演した年

2019年(予定)

出演時の年齢

33歳

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フランツ・ヨーゼフ一世の生涯と人物像

フランツ・ヨーゼフが生まれる前のハプスブルク家

MEMO
ミュージカル『エリザベート』は、主人公シシィの生涯をつづった作品ですが、一方、崩壊していくハプスブルク帝国も描かれています。

舞台上でのフランツ・ヨーゼフや母親のゾフィーを観ていると、「ハプスブルク家の重み」をひしひしと感じさせられるのですが、簡単にハプスブルクってなに?という所から、お伝えしていきたいと思います。

ハプスブルク家は、アルプス山中にある小貴族でした。もともとはオーストリアのウィーンではなくスイスの小さな町ブルックにあるお城「ハビヒツブルク(鷹の城)」がルーツ。

13世紀前半にルドルフ一世がはじめて神聖ローマ帝国の王位につき、息子のアルブレヒト一世がスイスの領地を手放してオーストリアに拠点を移します。そしてハプスブルク家は15世紀後半以降、結婚により領地を拡大。

1つの頂点を迎えたのが、マリア・テレジアの時代(18世紀半ば)でした。

マリア・テレジアは、フランスに嫁ぎ革命で命を落とした、あのマリー・アントワネットの母親です。マリー・アントワネットも、ハプスブルク家と長年敵対していたブルボン王朝との融和を図る為にフランスへ嫁がされました。

フランス革命はオーストリアにも大きな影響を与えます。革命の混乱が続く中、登場したナポレオンに2度ウィーンを占領され、1438年以降ハプスブルク家が代々選出されてきた神聖ローマ帝国が消滅。

ヨーロッパが混乱に陥り、秩序の回復に中心的な役割を担ったのが、オーストリア外相のメッテルニヒ(のちの首相)でした。

この時のハプスブルク家の皇帝は、オーストリア皇帝フランツ一世。(神聖ローマ皇帝としてはフランツニ世と名乗っていたのでややこしいですが、同一人物)フランツ・ヨーゼフの祖父にあたる人物です。

フランツ一世は、政治的手腕を発揮できる有能さは持ち合わせはおらず、政策を決定していたのはメッテルニヒでした。

「メッテルニヒ体制」と呼ばれる治安体制をしき、警察やスパイによって言論を監視。王家の人間ですら手紙を開封する徹底ぶりでした。

そんな、ハプスブルク家の力が衰えた頃にやってきたのが、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィーです。

若き日のゾフィー。非常に美しい人でした↓

周囲から熱い期待を寄せられた「塩の王子」

当時の皇帝フランツ一世には、王子が2人いました。ゾフィーは次男のフランツ・カールに嫁ぎます。

皇帝だけでなく彼の息子2人も有能とは言いがたく、長男のフェルディナント一世は病弱で、帝位継承は見込めないと考えられていました。そのためゾフィーのバイエルンの実家では、次男のフランツ・カールに嫁げば帝位が転がり込んでくると思ったようです。

しかし夫となったフランツ・カールも覇気のない人間で、そもそも帝位にも興味がありませんでした。

ゾフィーは結婚後、なかなか子供に恵まれませんでした。2度懐妊しましたが流産してしまいます。宮廷侍医のすすめで温泉保養地のバート・イシュルに夫と療養に行くことに。

バート・イシュルといえば、シシィとフランツ・ヨーゼフがお見合いした場所ですね。塩泉の温泉が出るところです。

バート・イシュルでの塩泉が良かったのか、結婚7年目の1830年ついにフランツ・ヨーゼフを出産します。

塩泉効果で授けられたということで、フランツ・ヨーゼフは「塩の王子」と呼ばれました。

フランツ・ヨーゼフは時代のハプスブルク王朝を担う王子として、周りから大きな期待を寄せられます。

幸い彼は、祖父や父、叔父と違い、健康で将来の皇帝になるべく厳しい訓練や教育もよく学び、優れた生徒でした。

MEMO
ゾフィーは、フランツよりも弟のマクシミリアンを可愛がった

ゾフィーはフランツを次期皇帝になるべく厳しく教育を受けさせましたが、逆にフランツの弟マクシミリアンには甘かったようです。フランツ・ヨーゼフもそんな弟に嫉妬心を持っていたのだとか。マクシミリアンはのちにメキシコ皇帝となり現地で銃殺されます。

18歳3ヶ月でオーストリア皇帝になる

1835年に皇帝フランツ一世が逝去します。当時フランツ・ヨーゼフはまだ4歳。フランツ一世の跡を継いだのは長男で王太子のフェルディナント一世でした。フェルディナント一世は病弱で世継ぎから除外することも検討されていましたが、皇帝を意のままに動かせるとメッテルニヒが強引に彼を推したのです。

ナポレオン戦争後、ウィーン会議を主催し欧州全体に秩序を取り戻したメッテルニヒは、外相としての外交手腕は高いものでしたが、宰相としての腕はいまいちで、検閲や弾圧など警察権力にすがった旧時代的な支配は人気のないものでした。

1848年パリで2月革命が起こり、その余波はヨーロッパ全土へたちまち広まります。ウィーンでも3月革命が起こり、学生や労働者たちが、検閲制度の廃止や出版、学問の自由、そして自由憲法の制定を要求しデモを起こしました。

このウィーン3月革命を機にメッテルニヒは退陣してロンドンへ亡命、そしてハプスブルク家では、フェルディナントからフランツ・ヨーゼフへと帝位が引き継がれました。

5000万人を抱えるオーストリア帝国の皇帝となったフランツ・ヨーゼフの当時の年齢は18歳3ヶ月。1848年12月のことです。メッテルニヒが去った宮廷では、ゾフィーが権力を持ち「宮廷でただ一人の男」と呼ばれます。

ちなみにですが、ここでいうオーストリア帝国とは、現在のオーストリアだけでなく、ハプスブルク家が支配した多民族国家のこと。(=ハプスブルク帝国)ハンガリー、チェコ、スロヴァキア、イタリア、ポーランド、ルーマニア、クロアチア、ダルマチアなど主要民族だけでも10を超えています。

皇帝となったフランツ・ヨーゼフが政治のモットーとしたのは「VIRIBVS(ヴィリブス)VNITIS(ウニティス)」=「一致団結して」というものでした。

この標語は多民族国家であるオーストリア帝国(ハプスブルク帝国)にとって、後になればなるほど大切な標語となってきます。

血で染まった若き皇帝

フランツ・ヨーゼフが生まれる前に起こったフランス革命~ナポレオン戦争は、民主主義が広まるきっかけになりなりました。

多民族を抱えるオーストリア帝国にも影響があり、特に抵抗が激しかったのが、帝国内でドイツ人に次いで人口の多かったハンガリー人です。16世紀にハプスブルク家に支配されて以来、強い恨みがありました。

フランツ・ヨーゼフが即位するきっかけとなった3月革命では、ウィーン以外のイタリア、ブタペスト、プラハなどでも暴動が起こりましたが、最後まで混乱が収まらなかったのがハンガリーのブタペストでした。

混乱の収束のため、ウィーン政府はロシア軍の援助を得て、ブタペストの暴動を鎮圧。新しく皇帝となったフランツ・ヨーゼフの名の元に血の粛清が行われました。そのため、ハンガリー人のフランツ・ヨーゼフに対する憎悪は強いものでした。

フランツ・ヨーゼフは68年にもわたる長い統治の中で、決して好戦的ではなく出来るだけ穏便に済ませる人物でした。

しかし即位後すぐに軍隊で各地の暴動を鎮圧したため、「血で染まった若き皇帝」と呼ばれ、即位後数年の評判は良いものではありませんでした。

お見合い当日に襲われる

フランツ・ヨーゼフは、母のゾフィー大公妃の指示に従い、従妹のヘレネとお見合いをします。バート・イシュルでのお見合いの席で、ヘレネにくっついてきた妹のシシィ(エリザベート)に惹かれちゃったのは有名な話。

しかし、もともとはバート・イシュルの前に、ウィーンでフランツ・ヨーゼフとヘレネはお見合いする予定でした。1853年2月のお見合い当日、フランツ・ヨーゼフは散歩に出た際に、一人の若者にナイフで刺されます。

致命傷は免れましたが、後頭部の骨が損傷するほどのケガで、傷の化膿で一時期は失明の恐れもあったそうです。

この時の犯人がハンガリー人のヤーノシュ・リベーニ。フランツ・ヨーゼフにハンガリーを鎮圧された際に、仲間のマジャール人たちが厳しい刑罰にあったことを恨み、報復のために皇帝を襲ったのでした。

ナイフで刺されたフランツ・ヨーゼフは、駆けつけた人々に、「彼を殺してはいけない」「殴ってはいけない」と叫んだそうです。

即位してから人気のなかったフランツ・ヨーゼフですが、この事件を機に同情が集まり市民からは親しみをもたれるようになります。

そして、当然のことながらお見合いは延期となりました。

きねちゃん

この時、予定通りヘレネとお見合いしていたら歴史はどうなったんでしょうね!?

エリザベート(シシィ)と結婚

ウィーンでのお見合い予定から半年後の8月。フランツ・ヨーゼフの傷もほぼ癒えて、再びお見合いの場が設けられます。それがバート・イシュル。丁度、宮廷のあるウィーンとシシィたちのバイエルンのあるミュンヘンとの中間に位置する温泉地でした。

ここで、フランツ・ヨーゼフはお見合い相手のヘレネではなく、妹のシシィに夢中になります。

当時フランツ・ヨーゼフは23歳になったばかりで、シシィは15歳。

フランツ・ヨーゼフとシシィはその前にも出会っていますが、前回はシシィが11歳と子供だったため、恋愛対象になることはありませんでした。しかし約5年ぶりに出会ったシシィの無邪気さやかわいらしさに、皇帝は一瞬で心を奪われてしまったようです。

それまで、母ゾフィーの指示に従順だったフランツ・ヨーゼフが初めて自分の意志を通したのが、シシィとの結婚でした。

プロポーズを受けてシシィも嬉しかったようです。

フランツ・ヨーゼフ一世はエリザベートより小柄でしたが、とてもハンサムでした。(※エリザベートの身長172~3cmに対し、フランツ・ヨーゼフ1世は165cm) 

翌年1854年の4月、2人はウィーンのアウグスティーナ教会で結婚式を挙げます。

フランツ・ヨーゼフとエリザベートとの仲

フランツ・ヨーゼフはシシィに一目ぼれし、そんなフランツにシシィも想いを寄せて結婚・・・幸せな結婚生活になるかと思いきや、シシィは早くもウィーン宮廷で息が詰まる思いをします。

もともと姉のヘレネがお妃候補だったので、シシィは満足にお妃教育を受けてはおらず、またバイエルンで自由にのびのびと育ったことから、姑ゾフィーから絶えず監視される生活は、シシィには我慢できないものでした。

自分で産んだ子もゾフィーに取り上げられ、フランツに訴えますが、肝心のフランツは「母の方がよく分かっているから任せておけばよい」という態度。

しかしフランツ・ヨーゼフのために弁解させてもらうならば、この態度は決してシシィをないがしろにしたものではないはず。

疑問を抱くこともなく、ゾフィーに任せておけばよいと考えていたと思います。

なぜなら18歳に皇帝になった時から、彼をそばで差さえ続けてくれた母に絶大な信頼があり、シシィとの結婚を除けば、母の意見に従うことが彼にとっては自然だったからです。

彼は、ふつうの役人で軍人であり、義務を正しく遂行する人間で、シシィやルドルフの繊細さは持ち合わせていませんでした。

シシィはやがてウィーン宮廷を離れ、旅から旅へと繰り返すようになります。そんなシシィをフランツ・ヨーゼフは愛し続け、旅先でお金が無くなったと聞けば、すぐに送金し、シシィのために大型ヨットを購入したり、彼女のためにウィーン郊外に別荘ヘルメス・ヴィラを建てたりしています。

当の本人は、洋服がほつれても着続ける倹約家であったにもかかわらず、シシィのためなら出費を惜しみませんでした。

フランツ・ヨーゼフからシシィへの愛は生涯変わることはありませんでしたが、ではシシィはフランツ・ヨーゼフに対してどうだったのでしょうか?

宮廷から逃れるように生活していたシシィですが、ゾフィーや宮廷の目から離れてフランツ・ヨーゼフと一緒に過ごせる時間を楽しみにしていたり、戦争で気持ちが昂るフランツ・ヨーゼフの傍に付き添ったりしたエピソードもあり、シシィも彼女なりにフランツ・ヨーゼフに対し愛情があった、と私は考えています。

帝国崩壊の大きな原因となった1866年のプロイセンとの戦争「ケーニヒグレーツの戦い」では、シェーンブルン宮殿で落ち着きなく過ごすフランツ・ヨーゼフを元気づけ、その様子をみた姑のソフィーはシシィの評価を改めたそうです。

1866年というと、前年の1865年にシシィがフランツ・ヨーゼフに最後通牒の手紙を書き、ゾフィーから子供の教育権を取り戻し、自らに関する決定権を得た翌年のことです。

最後通牒はミュージカルで、フランツ・ヨーゼフが『エリザベート 開けてくれ 君が恋しい 側にいたい』とドアの外からシシィに訴えるシーンでありますね。

自分の要求を通してくれたことで、シシィもフランツ・ヨーゼフに寄り添って妻と皇后の務めを果たそうとしたのではないか、と思います。

なお、シシィはフランツ・ヨーゼフの求婚を受けた際、「あの方を愛しています。でもあの方が皇帝でさえなければ…」と口にしていました。

フランツ・ヨーゼフ自身も質素で素朴な生活を好む人間だったことを考えると、2人は名門ハプスブルク家の皇帝・皇后でなければ、違う幸せな道があったのかもしれませんね。

とはいえ、フランツ・ヨーゼフが皇帝という事実は変えようがなく、彼にいつも一緒についていてあげられないことに罪悪感のあったシシィは、フランツ・ヨーゼフに自分の代わりとなる女性を紹介します。彼女が仲をとりもったのが、カタリーナ・シュラットという女優でした。

1885年にロシア皇帝夫妻との会見で、オーストリア側の企画した舞台があり、そこに出演していたのがカタリーナ・シュラットです。

カタリーナ・シュラットをうっとりとした表情でみていたフランツ・ヨーゼフに気づき、シシィは2人が接近するように仕向けました。

シシィ、フランツ・ヨーゼフ、カタリーナ・シュラットは、時に3人で過ごすなど周囲からみたらなんとも奇妙な関係に思いますが、シシィ不在の間、またシシィ亡き後、フランツ・ヨーゼフの心の支えとしてカタリーナ・シュラットは存在し続けます。

皇帝の一日「規則正しく義務を遂行」

18歳で即位したから86歳で亡くなるまで、フランツ・ヨーゼフは1日10時間以上働き続けました。

朝は4時起床。早い時は3時半に起き、午前5時に皇帝執務室へ入り、就寝は11時。

ミュージカル『エリザベート』でも、朝5時に姑のゾフィーがシシィを起こしにきて「なんて寝坊なの」と言うシーンがあります。

フランツ・ヨーゼフ一世統治下の帝国内では、規則正しい生活を送ることが奨励され、秩序を乱したり変革を求める人には罰が与えられていました。

規則正しい生活を守ることにおいて、フランツ・ヨーゼフほどまさった人物はいなかったかもしれません。

皇帝の一日は時間が厳密に決められていたので、フランツ・ヨーゼフの姿をみれば、今が何時なのか時間がわかったそうです。

フランツ・ヨーゼフは朝食も昼食も執務室で簡単に済ませていました。夕食は家族と一緒にとる事もありましたが、身分が一番高い皇帝が話さない限り、他の人はおしゃべりする事ができなかったので、寡黙な皇帝ととる食事の場は気づまりだったようです。

軍隊に強い信頼と愛着を持っていた皇帝が、毎日身に着けていたのは軍服で滅多に私服を着ることはありませんでした。

自動車や汽車、電話といった文明の発展を遂げた時期でしたが、新しいものには拒絶反応を示し、本人の移動には馬車を使い、シェーンブルン王宮でも、電気を通さず燭台で過ごし、意固地なほど古い習慣を守っていました。

延命策では歯止めが効かない。帝国をゆるがした3つの出来事

フランツ・ヨーゼフが統治した時代は、”鉄血宰相”と呼ばれるビスマルクを抱えた好戦的なプロイセンなど、列強が策略を用いて他の国を出し抜こうとした時代で、オーストリア帝国は翻弄され続けました。

ハプスブルク家はもともと武力で領地を拡大してきたのではなく、結婚政策がうまくハマリ広大な領地を得てきた貴族です。

フランツ・ヨーゼフ自身も積極的に武力で他国の領土を脅かす政策ではなく、ひたすら帝国の安泰を願い、他国との競争をできるだけ避ける、いわば延命策をとってきました。

しかし防御に重きを置いた政策は正解だったのか…?

彼の統治下で、帝国の将来に大きな影響を与えたと考えられるのが、次の3つです。

  1. ソルフェリーノの戦い(1859年)
  2. ケーニヒグレーツの戦い(1866)
  3. オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立(1867)

①のソルフェリーノの戦いで、南チロルを除くイタリアの大部分をハプスブルクは失います。

②のケーニヒグレーツの戦いは、オーストリアとプロイセンがドイツの覇権を争った戦争。天才ビスマルクの手管により完敗し、ハプスブルクはドイツから締め出しをされ、面目丸つぶれとなります。

かつてヨーロッパを支配していたハプスブルクは、イタリアとドイツの旧領を失ってしまったあげく、この2つの大敗により力が弱まり、帝国内の多民族の自治権を求めた運動が活発になります。

その中で迎えたのが、③のオーストリア=ハンガリー二重帝国の成立です。

オーストリア帝国内の民族の中で、抵抗が一番激しかったのが、ドイツ人に次に人口が多かったマジャール人のいるハンガリーでした。

①のソルフェリーノの敗戦で、帝国内の争乱は避けられないと判断したウィーン政府は、各州の議会に権限を認める文章を発行しましたが、ハンガリー人はこれだけでは不十分と強い態度をとるようになりました。

そして②のケーニヒグレーツの敗戦後、半ばハンガリー独自の自治を認めた二重帝国が誕生します。

オーストリア=ハンガリー二重帝国は、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼任しますが、それぞれの政府には別に首相が任命され、対外政策、防衛、財政を除けば、オーストリアもハンガリーも独自の政治をしてよいことになりました。

公用語もドイツ語とハンガリー語が対等の扱いとなります。

ミュージカル『エリザベート』でも、ハンガリーの王冠を抱くフランツ・ヨーゼフとエリザベートのシーンがありますね。

オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立には、ハンガリーを愛したシシィの助言もありました。

さて、ここで不満を持ったのが、ハンガリー以外の民族です。

オーストリア帝国内では、ドイツ人>ハンガリー人>チェコ・スロバキア人>ポーランド人>ルテニア人(ウクライナ人)>ルーマニア人>スロヴェニア人

といった順番で人口構成がされていました。

ハンガリー人にドイツ人並みの優位的地位を与えた結果、我々にも与えよという声が他の民族から日増しに増えてきました。当然といえば当然ですよね。

中でも強く要求したのが、ハンガリー人に次いで人口が多かったチェコ人です。

彼らはオーストリア=ハンガリー二重帝国の成立に抗議し、ウィーンの帝国議会をボイコットしました。

ウィーン政府は、こうした情勢に対して、チェコに対してもハンガリーと同じ協定を結び、オーストリア=ハンガリー帝国にチェコを加えた三重帝国へと再編する予定でした。

しかしこれに猛反発したのがハンガリーです。彼らは自分たちの特権が失われるのが嫌だったんですね。

結局、この案は流れてしまい、チェコ人のナショナリズムは強くなる一方でした。

そこでドイツ人とチェコ人の仲を改善する案として言語令を発令し、チェコ語とドイツ語を同等の権利を与えます。その翌年にはボヘミアの州議会で、ドイツ人を抑えチェコ人が多数を占めるようになりました。

しかし約20年後に発令された「ボヘミア(チェコ西部)とモラヴィア(チェコ東部)のすべての役人は、ドイツ語とチェコ語を理解できなければならない」という新しい言語令が混乱を招きます。

ボヘミアに在住していたドイツ人が職を失う恐れが出てきたからです。チェコ人は数世紀にわたるドイツ人支配により、チェコ語のほかドイツ語も身に着けていましたが、ドイツ人は自分たちが支配していたチェコ人の言語を習得しないと死活問題に発展することとなってしまいました。

暴動がいつ起きるかとも知れない騒動となり、フランツ・ヨーゼフは新言語令を出したバデーニ首相を罷免します。そうすると今度はチェコ人が納得せず、議会のボイコットや妨害をはかるようになりました。

これはチェコの例ですが、ウィーン政府に不満を持つ民族による騒動は帝国内で勃発し、いつハプスブルク帝国が解体してもおかしくない状況でした。

われは見捨てられし者なり・・・皇帝に次々と襲いかかる不幸

1889年唯一の息子で帝位継承者のルドルフが、マイヤーリンクで男爵令嬢マリー・ヴェッツェラと伴に遺体で発見されます。

死因に関しては諸説ありますが、最も濃厚なのが心中説(自殺)でした。

ルドルフは母のシシィ譲りの繊細さを持ち合わせていましたが、彼なりの政治思想がありました。しかしルドルフの自由主義的な思想は、父親フランツ・ヨーゼフの「一致団結して」のモットーとは相いれず、フランツ・ヨーゼフはルドルフを政治に参加させなかったそうです。

マイヤーリンク事件の4日前、皇帝の従僕が、「お前は私の後継者にふさわしくない」と話すフランツ・ヨーゼフの声を聴いています。

息子で帝位継承者ルドルフの死は皇帝に深い悲しみをもたらしましたが、さらに追い打ちをかけたのが、ルドルフは母や妻など複数の人間に遺書を残したのに、父のフランツ・ヨーゼフには何も残さなかったことでした。

そしてルドルフの自殺から約10年後、最愛の妻シシィがスイスのレマン湖で、無政府主義者ルイジ・ルキーニに刺され亡くなります。

話をさかのぼれば、実弟のマクシミリアンが、ナポレオン3世の支援でメキシコ皇帝になるも、フランス軍撤退後、現地で銃殺刑にあっていました。

また、息子ルドルフ亡き後、帝位継承者となった皇帝の甥フランツ・フェルディナントは、妻とともにサラエボで銃弾に倒れます。

この事件をきっかけに、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦が勃発。

「われは見捨てられし者なり。最後の息絶えるまで戦う者なり。名誉のうちに滅びゆく者なり。」

フランツ・ヨーゼフは、戦で敗北を喫したり、ルドルフやシシィのような悲劇的な事件に遭遇すると、このような言葉を漏らしたといいます。

皇帝の死と帝国崩壊

第一次大戦の最中、フランツ・ヨーゼフは86歳で逝去しました。

亡くなる夜、皇帝の側近に「明朝午前3時半に」といつものように伝えたそうです。その夜、1916年11月21日午後9時5分に息を引き取りました。

フランツ・ヨーゼフ亡き後、帝位を継いだのが、まだ30歳にも満たないフランツ・カール一世でした。サラエボで暗殺されたフランツ・フェルディナントの甥です。

カール一世は平和への努力を重ねようとしましたが、結局、オーストリア・ハンガリー二重帝国は敗北。

カール一世が退位し、ウィーンでオーストリア共和国の宣言が行われ、帝国は解体されました。カール一世が皇帝だったのは、わずか2年の間のみでした。

象徴となった皇帝

ナショナリズムと民主主義が台頭し、様々な権謀術数がうごめく時代に、愚直なまでに真面目で不器用、政治も外交もセンスがあるとは言えないフランツ・ヨーゼフは、時代の流れに悪戦苦闘します。

フランツ・ヨーゼフが亡くなって2年後にはオーストリア帝国(ハプスブルク帝国)は歴史から姿を消すことになりますが、プロイセンのビスマルクのような有能な側近がいなかったことや、役人から軍人までオーストリアの上流階層に蔓延していた生ぬるい体質など、いくつか要因があるかもしれません。

しかし、フランツ・ヨーゼフが即位した当時、帝国はすでに崩壊へと揺らいでおり、恐らく誰が統治しても、時代の流れを変えることはできなかった、いやむしろ、「一致団結して」をモットーとするフランツ・ヨーゼフが皇帝として存在し続けたからこそ、10以上の民族が争いながらも1つの国家を長く維持できたといえます。

ハプブルク王朝は民族主義によって崩壊しますが、完全な独立を目指した民族はごくわずかで、ほとんどは自治権を要求するものでした。ドイツやロシアといった強国が存在する中、小民族同士バラバラでいるよりは、ハプスブルク帝国の大きな傘の中で独自性を保たれているのが安全だと考えていたからです。

フランツ・ヨーゼフが掲げた「VIRIBVS(ヴィリブス)VNITIS(ウニティス)」=「一致団結して」は、いくつもの民族が協力して1つの共同体を作り上げる、今日のEU(欧州連合)の目指すものです。EUの理念はすでにフランツ・ヨーゼフ時代のオーストリアで培われていたものでした。

国のために例え一日でも政務の机から離れず、ひたすら国家のために身をつくすフランツ・ヨーゼフの姿は、年齢を重ねるとともに国民から敬慕を集めます。

当時の写真技術の発達により、皇帝の簡素な服装や学者らと親しく会話をするありさまは人々に親しみを与え、オーストリアの象徴となり、国民からは不死鳥、国父と呼ばれるようになりました。

ちなみに外交と政治では苦難続きでしたが、フランツ・ヨーゼフが在位中、オーストリアの文化は発展しました。

ウィーンをぐるっと囲む環状道路「リング・シュトラーセ(Wiener Ringstrase)」を引き、市街を整えたのもフランツ・ヨーゼフです。

リング・シュトラーセ開通後、ウィーン国立オペラ劇場、ヴォティーフ教会、帝国議会、ウィーン市庁舎、ウィーン大学、ブルク劇場、美術史博物館と、私たちが今日目を見張るような景観が作られていきました。

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ミュージカル『エリザベート』のフランツ・ヨーゼフみどころ

幅広い年齢を演じる役

ミュージカル『エリザベート』でのフランツ・ヨーゼフは、青年から年老いたときまで幅広い年齢を演じます。

舞台を通してまんべんなく登場しますが、わずかなセリフや数小節だけ歌って退場することが多く、その間に年月が経過しているので、衣装はもちろん表情や声も変っていきます。

シシィへの恋心、シシィに拒絶される切なさ、母ゾフィーへの尊敬と怒り、息子ルドルフへの厳しさ、皇帝としての品格、帝国の重みを一人背負う孤独など、場合によっては出てきた瞬間にフランツ・ヨーゼフの感情を表現しなければいけない役です。

それでいながら、シシィやルドルフと違って感情を大きく表に出す人間ではないので、ちょっとした動きや目線などで気持ちを表す必要があり、とても大変な役ではないかと思います。

同じ旋律をベースにした「あなたが側にいれば♪」「夜のボート♪」

ミュージカルの後半、老年のフランツ・ヨーゼフが、シシィのいるスイスレマン湖にやってきて、「人生のゴールは寄り添いたい」と訴え、そんなフランツに対して「二つのゴールよ。」と答えるシシィ。

晩年の2人が歌う「夜のボート♪」で、2人はゆっくりと歩み寄り、フランツは片手を差し伸べますが、2人の位置が微妙にずれていて、歩み寄りながらも2人はすれ違ったまま。

この「夜のボート♪」と同じメロディ―が使われているのが、ミュージカル前半の「あなたが側にいれば♪」です。

こちらは若いフランツがシシィにプロポーズし、2人は愛と希望に満ち溢れて歌います。

同じ旋律が、前半と後半で全く逆の内容で歌われるんですね。

「あなたが側にいれば♪」ではユニゾンが多用されていますが、「夜のボート♪」ではハーモニーになっていて、2人の心理状態を表すのに一役買っています。

ユニゾンとハーモニーの違い
ユニゾン→同じ音(オクターブで同じ音の場合もある)を出して調和させている状態

ハーモニー→違う音同士が綺麗に調和している状態

ミュージカルで同じ旋律を違う場面で使うことはよくありますが、「あなたが側にいれば♪」と「夜のボート♪」のように、真逆のシチュエーションで使われるのは珍しく、痛烈な皮肉にも感じる場面です。

後半の「夜のボート♪」は、私たち観客が物悲しく感じる場面なのですが、過去のインタビューなどをみると、フランツ・ヨーゼフを演じる役者さんに、「一番熱い気持ちでやってほしい」「久しぶりにやっとエリザベートに会えてフランツ・ヨーゼフは嬉しいはずだ」「これはラブソングだ」といった演出の指示が出たことがあるようです。

その時々の演出によって違いはあるかもしれませんが、史実をみると、いついかなる時もフランツ・ヨーゼフはシシィに会えるのを楽しみにしていたので、この指示は的確に感じます。

シシィ側では「無理よ」といっているのに、それでも希望を捨てなそうなフランツ・ヨーゼフ….やはり同じゴールは難しいのか。

ただ個人的には、史実では2人はすれ違う生活だったけれど、お互い思いやりを持っていた夫婦だと思うので、ずっと1つのボートじゃなくても、フランツ・ヨーゼフの乗るボートにシシィが時々乗りに来てくれたらよいなと願っています….

このシーンは、演じる役者さんや、同じ役者さんでもその日によって印象が変わるシーンで、ほんとうに理解し合えない2人と思う時もあれば、どこかで分かり合っているような2人と思える時があります。シシィが好きすぎて報われないフランツが可愛そうでならない時もあるし、2019年はどうなるんでしょうね。後半の大きな見せ場の1つです。

悪夢

「夜のボート♪」に続くシーン。トートに「(ハプスブルクの栄光の終焉は)お前のせいだ」と責められ、崩れゆく帝国に、打ちひしがれなすすべもないフランツ・ヨーゼフ。

そして「彼女の為 すべて与えた」というフランツ・ヨーゼフに対し、「俺だけが与えられる自由を」と切り返すトート。

俳優さんによって男性としてシシィを全力で守ろうとしたり、シシィを奪おうとするトートへの強い怒りがあったり、シシィを守れない自分の弱さに打ちひしがれたり….思いっきり主観ですが、フランツ・ヨーゼフの無念さを感じる壮絶なシーンです。

帝国の重みを一人で背負い、その崩壊していく様を目にする辛さ、そして最愛のシシィを失う辛さ。

フランツ・ヨーゼフの「われは見捨てられし者なり」という言葉が濃縮されたような場面で、ミュージカル『エリザベート』は、エリザベートの一生をつづった作品ですが、フランツ・ヨーゼフと伴にハプスブルク家の終焉も描いた作品であるとわかる、とても大切なシーンです。

田代万里生さんのブログ

最後に、2015年からフランツ・ヨーゼフ一世を演じている田代万里生さんのブログを勝手ながらご紹介させて頂きます。

フランツ・ヨーゼフ紀行 /MARIO CAPRICCIO(田代万里生オフィシャルブログより)

田代万里生さんが、フランツ・ヨーゼフゆかりの地、オーストリアのウィーン・ザルツブルク・バートイシュル、ハンガリーのブダペストを訪れた際のもので、皇帝の人となりが伝わってくるのに加え、田代万里生さんの熱い想いも伝わってくるブログです。

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フランツ・ヨーゼフ参考・関連本


フランツ・ヨーゼフ: ハプスブルク「最後」の皇帝 (河出文庫)


ハプスブルク家 (講談社現代新書)

ハプスブルク家の女たち (講談社現代新書)

図説 ハプスブルク帝国 (ふくろうの本/世界の歴史)

『エリザベート』とクンツェ&リーヴァイの世界 2016 (HINODE MOOK 43)

他、公演プログラムなど

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