義務を忘れたものは滅びる~エリザベート歴代ゾフィー役(東宝・帝劇ミュージカル)

大公妃ゾフィーはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の母で、エリザベート(シシィ)の姑。東宝版『エリザベート』のゾフィーは、「皇后の務めは自分の心を殺してすべて王家に捧げること」とエリザベートが嫁いできた翌朝に言い放つ厳しさを見せながらも、厳しさの裏にある帝国への想いが伝わってくる役柄です。

きねちゃん

「宮廷でただ一人の男」と呼ばれたゾフィーは、舞台上では軍服を模したドレスに身を包みます。絶大な権力を握る前半での衣装と、晩年の衣装の違いも注目したい点。

東宝版歴代ゾフィー役キャスト

年表(年齢つき)

読み方
  • 初、②→初:ゾフィー役初、②:ゾフィー役2回め、以降同じ
  • 出演時の年齢
  • ゾフィー役初出演は太文字


敬称略


ゾフィー役
2000年 初風 諄(初・58歳)
2001年 初風 諄(②・59~60歳)
2004年 初風 諄(③・62~63歳)
2005年 寿ひずる(初・51歳)
2006年 初風 諄(④・64歳)
寿ひずる(②・52歳)
2008年~
2009年
初風 諄(⑤・66~67歳)
寿ひずる(③・54歳)
2010年 寿ひずる(④・56歳)
杜けあき(初・51歳)
2012年 寿ひずる(⑤・58歳)
杜けあき(②・52~53歳)
2015年 剣幸(初・61歳)
香寿たつき(初・49歳)
2016年 香寿たつき(②・50歳)
涼風真世(初・55~56歳)
2019年 剣幸(②・65歳)
涼風真世(②・58歳)
香寿たつき(③・53歳)
2020年 剣幸(③・66歳)
涼風真世(③・59歳)
香寿たつき(④・54歳)


  • 2019年現在まで全員宝塚出身
  • 初風諄さんは2005年病気で降板
  • 香寿たつきさんは宝塚時代の『エリザベート』で、皇太子ルドルフ役で出演
  • 涼風真世さんは2008年~2009年東宝『エリザベート』にエリザベート役で出演

初風 諄(はつかぜ じゅん)

生年月日 1941年9月11日
出生地  東京都
身長 160cm
血液型 O型
愛称 カンちゃん

元宝塚歌劇団星組・月組主演娘役。『ベルサイユのばら』初演でマリー・アントワネット役を務める。パリ公演など海外公演にも参加する。娘役トップとしては宝塚歌劇団史上初めて、特別公演「サヨナラリサイタル」を行った。宝塚歌劇団退団後、長く家庭に専念し、2000年東宝ミュージカル『エリザベート』のゾフィー皇太后役で24年ぶりに舞台復帰。宝塚退団後の主な出演作は、『ミー&マイガール』、『宝塚BOYS』、『蜘蛛女のキス』、『ウェディング・シンガー』、『CHICAGO THE MUSICAL』など。

2014年宝塚歌劇創立100周年を記念し創立された『宝塚歌劇の殿堂』で、最初の100人の一人として殿堂入りした。

ゾフィー役で出演した年

2000年、2001年、2004年、2006年、2008~2009年

出演時の年齢

58歳~67歳

寿ひずる(ことぶき ひずる)

生年月日 1954年3月17日
出生地  三重県
身長 168cm
血液型 O型
愛称 イーちゃん

元宝塚歌劇団雪組・花組2番手男役スター。伸びやかな歌声と演技力で退団後もミュージカルやストレートプレイで活躍。退団後の主な出演作は、『蜘蛛の巣』、『鹿鳴館』、『風と共に去りぬ』、『レベッカ』など。

ゾフィー役で出演した年

2005年、2006年、2008~2009年、2010年、2012年

出演時の年齢

51歳~58歳

杜 けあき(もり けあき)

生年月日 1959年7月26日
出生地  宮城県
身長 165cm
血液型 AB型
愛称 もりちゃん、かりんちょ

元宝塚歌劇団雪組トップスター。宝塚退団後は舞台だけでなくテレビドラマ等でも活躍している。特技は日舞で名取でもある。退団後の主な出演作は、『出雲の阿国』、『風と共に去りぬ』、『新幹線 おそうじの天使たち』、『CHICAGO THE MUSICAL 』、『ソ→ォス! 』など

ゾフィー役で出演した年

2010年、2012年

出演時の年齢

51歳~53歳

剣幸(つるぎ みゆき)2020年出演(東京、大阪、名古屋、博多)

生年月日 1954年3月2日
出生地  富山県
身長 162cm
血液型 O型
愛称 ウタコ

元宝塚歌劇団月組トップスター。退団後も数多くの舞台やコンサートで活躍。1993年アガサ・クリスティー劇場『蜘蛛の巣』主演で、第18回菊田一夫演劇賞受賞。2006年『カーネギーの日本人』で、東京芸術劇場ミュージカル月間個人優秀賞受賞など数々の賞を受賞している。2016年「宝塚歌劇の殿堂」顕彰者に選ばれる。

ゾフィー役で出演した年

2015年、2019年、2020年(予定)

出演時の年齢

61歳~66歳

涼風真世(すずかぜ まよ)2020年出演(東京、大阪、名古屋、博多)

生年月日 1960年9月11日
出生地  宮城県
身長 163cm
血液型 O型
愛称 かなめ

元宝塚歌劇団月組トップスター。宝塚時代に『エリザベート』への出演はないが、1993年に『ロスト・エンジェル』で『エリザベート』の楽曲を歌う。退団後もミュージカルで活躍。2008年~2009年には東宝『エリザベート』にタイトルロールで出演。その他の退団後の主な出演作は、『貴婦人の訪問』、『モーツァルト!』、『レディ・ベス』、『レベッカ』など。

ゾフィー役で出演した年

2016年、2019年、2020年(予定)

出演時の年齢

55歳~59歳

香寿たつき(こうじゅ たつき)2020年出演(東京、大阪)

生年月日 1965年11月26日
出生地  北海道札幌市
身長 165cm
血液型 B型
愛称 タータン

元宝塚歌劇団星組トップスター。宝塚時代に、『エリザベート』で皇太子ルドルフ役を演じる。日本舞踊(花柳流名取)・スキーの免許をもつ。退団後の主な出演作は、『WEST SIDE STORY』、『屋根の上のヴァイオリン弾き』、『モーツァルト!』など。

ゾフィー役で出演した年

2015年、2016年、2019年、2020年(予定)

出演時の年齢

49歳~54歳

オーストリア大公妃ゾフィーの生涯と人物像

美しく賢いゾフィー


1805年1月27日に生まれたゾフィーは、バイエルンのヴィッテルスバッハ家出身。正式名称は、ゾフィー・フリーデリケ・ドロテーア・ヴェイルヘルミーネ・フォン・バイエルンです。

バイエルン王マクシミリアン1世(ゾフィーが生まれた当時はバイエルン選帝侯)と、2番目の妻でバーデン公女のカロリーネとの間に生まれた5番目の子供でした。

ミュージカル『エリザベート』にも出てきますが、シシィ(エリザベート)の母ルトヴィカの姉であり、シシィの叔母にあたります。

ヴィッテルスバッハ家と言えば、かつて神聖ローマ帝国皇帝を排出した名門。同時にヴィッテルスバッハ家は代々、美男美女を排出する事でも有名で、ノイシュヴァンシュタイン城を建設したルートヴィヒ2世やシシィもその美貌で有名です。

ゾフィーも非常に美しく賢い少女でした。

なお、ゾフィーには双子の妹がおり、4つ上の姉も双子。また母のカロリーネも双子という双子の家系のようです。

政略結婚でハプスブルク家へ

ゾフィーが19歳の時に、政略結婚でハプスブルク家に嫁ぎます。結婚相手はハプスブルク家皇帝フランツ2世※の次男フランツ・カール大公。

ヨーロッパの名門中の名門であるハプスブルク家は、勢力拡大または平和維持のために「結婚」を積極的に行ってきました。

ミュージカル『エリザベート』でも、ゾフィーがウィーンの宮廷で、「オーストリー皇帝は何も決める必要はありません。戦争は他の国に任せておけばよい。幸運なオーストリーは結婚で絆を結ぶのです」というセリフがあります。

きねちゃん

この「結婚」で国を守るというハプスブルク家の考え方は、のちのゾフィーがエリザベートに厳しかった理由を考えるのに、とても重要な要因だと思います。

ゾフィーやエリザベートの出身ヴィッテルスバッハ家とハプスブルク家は歴史上、婚姻関係を結ぶ間柄でもありましたが、お互いの継承権に名乗りを上げて戦争も起こしています。この両家のパイプを太くするのに結婚は最適だったのでしょう。ちなみにゾフィーが嫁いだ時、すでに異母姉カロリーヌがハプスブルク家皇帝フランツ2世の妻となっていました。

さて、ゾフィーの結婚相手フランツ・カールは覇気も魅力もない人物で、バイエルンの実家が、フランツ・カールとの結婚は娘のゾフィーが気の毒と思ったくらいの相手だそうです。

しかし、フランツ・カールは帝位を受け継ぐ可能性が高かったため、縁談の運びとなりました。

フランツ・カールには兄がいましたが(のちのオーストリア皇帝フェルディナント1世)、1人では階段に昇れないほど病弱で子供を望めず、フランツ・カールに帝位が転がりこんでくると考えられていたからです。

(結局、フランツ・カールをすっとばして、彼とゾフィーの息子フランツ・ヨーゼフが帝位を継ぐことになります。)

ゾフィーの美しさはウィーンの宮廷でも評判になりましたが、夫のフランツ・カールは特にゾフィーに興味を示さなかったそうです。魅力が乏しい上に自分を愛そうとしない夫。そんな彼と夫婦となり、ウィーンでのゾフィーの生活が始まります。

※フランツ2世:神聖ローマ帝国最後のローマ皇帝で、最初のオーストリア皇帝フランツ1世

ゾフィーが嫁いだ時のハプスブルク家の状況


当時のハプスブルク家は歴史ある旧家でありながらも、ナポレオンとの戦争の影響により裕福ではありませんでした。

そして皇帝フランツ2世は穏やかな人物でしたが、リーダーシップを発揮するタイプではなく、長男のフェルディナントは病弱、次男でゾフィーの夫フランツ・カールも皇位継承を望まない人物でした。

当時、ハプルブルク家の政策を決定していたのは宰相のメッテルニヒです。

そんな状態のハプスブルク家に嫁いできたのが、情熱的で頭がよく意志も堅いゾフィーでした。

 
 
歴史を少しさかのぼります。

1789年に勃発したフランス革命は、ハプスブルク家出身のフランス王妃マリー・アントワネットの悲劇でも知られていますが、この余波は周辺のヨーロッパ諸国にも大きな影響を与えます。

ウィーンをナポレオンに2度占領され、ハプスブルク家は広大な領地を失います。さらにナポレオンが帝国内のドイツ諸侯に圧力をかけてハプスブルク家を裏切って自ら盟主になるライン同盟を組ませたせいで、1438年以降ハプスブルク家が代々選出されてきた神聖ローマ帝国が消滅します。

ちなみに、ハプスブルク家を裏切りライン同盟を結んだ諸侯の中には、ゾフィーの母国バイエルンも含みます。これがきっかけでバイエルン王国として独立を果たす事になりました。

最後の神聖ローマ帝国皇帝が、ゾフィーの夫フランツ・カールの父フランツ2世です。

自ら神聖ローマ皇帝の称号を破棄し、ハプスブルク家世襲領と皇帝の称号を守るため、フランツ2世は自らを「オーストリア皇帝」フランツ1世と称するようになりました。

これがゾフィーが生まれる1年前の1804年の話です。

その後、ヨーロッパを征服する勢いだったナポレオンはモスクワ遠征の失敗しエルバ島に流刑。そこから脱出するも、ワーテルローの戦いで完敗し流刑先のセントヘレナ島で没します。

混乱したヨーロッパの秩序の回復に中心的な役割を担ったのが、オーストリア外相でのちの首相クレメンス・フォン・メッテルニヒでした。

「会議は踊る、されど会議は進まず」で有名な、ウィーン会議(1814年~1814年)の主宰者です。

ヨーロッパを「フランス革命以前の状態に戻す」としたメッテルニヒの外交手腕により、ヨーロッパの大国間の勢力が均衡し、この後30年以上にわたり平和が続くようになります。

ウィーン会議で、ハプスブルク家は戦前の領土の多くを取り戻しさらに新たな領土を獲得しました。ただ神聖ローマ帝国の復活はならず、代わりにドイツ連邦が誕生します。そしてドイツ連邦の覇権はやがてプロイセンが握るようになります。

メッテルニヒがもたらした勢力の均衡は戦勝国の利害を中心にしたもので、弱小民族の犠牲の上に成り立っていました。

またナポレオン戦争は、民主主義が広まるきっかけとなり、オーストリアのように多民族で成り立つ王国は、のちに民族意識の高揚と伴に体制が脅かされるようになります。

オーストリア国内では、メッテルニヒが「メッテルニヒ体制」と呼ばれる抑圧体制をしきます。言論は警察やスパイに徹底的に監視され、王家といえども手紙は開封され、ベートーヴェンの歌詞やゲーテシラーの作品も検閲が行われました。

ゾフィーが嫁いだ当時のハプスブルク家の状態をまとめると、

  • 神聖ローマ消滅でかつての威光はない
  • 戦争でお金がなかった
  • 多民族を抱えいつ何がおこるかわからない
  • 皇族メンバーはリーダーシップに欠ける
  • メッテルニヒ体制により保守化していた

という状況でした。

ゾフィーは「わたしがハプスブルク家を立て直す」くらいの、相当な覚悟をしてウィーン宮廷に嫁いだはずです。

ハプスブルク家へ嫁いだ後のゾフィーは、積極的に社交の場に顔を出し、様々な人とパイプを持とうとしたそうです。

ウィーンの宮廷で一人異彩を放つゾフィーは、当時の権力者で皇帝の親友でもあったメッテルニヒに認められるようになります。

この2人はのちにウィーン宮廷で、協力関係を結んだり、または裏切ったりと政治的駆け引きをしていくようになります。

皇太子フランツを出産

ゾフィーがハプスブルク家に嫁いで最も期待されたことは世継ぎを生むことでしたが、何度か流産してしまいます。そこで温泉保養地のバート・イシュルに夫と療養に行くことになりました。

バート・イシュルといえば、エリザベートにフランツ・ヨーゼフが求婚した土地で、ミュージカルのお見合い場面でも出てきます。

バート・イシュルでの療養を経たのち、結婚7年目に長男のフランツを出産(1830年)しました。のちのオーストリア皇帝です。フランツ出産後は、メキシコ皇帝となった次男のフェルディナント・マクシミリアンなど合計6人の子供を産みます。(一人は死産)

フランツ誕生時、皇帝フランツ2世は健在でしたが、第一世継ぎのフェルデナンド皇太子は身体の震えやたどたどしい話し方は尋常ではなく、また次のフランツ・カール(フランツ・ヨーゼフの父)は、すでに即位する意志がない事を表明していました。

おのずと、生まれたばかりのフランツに周りの期待が膨らみます。

その期待を裏切らず、フランツは元気旺盛で良く学ぶ優秀な子供でした。ゾフィーは、将来皇帝になるべくフランツが幼いうちから厳しくしつけます。

そして息子の存在により宮廷での権力を握り始めました。

フランツ・ヨーゼフ一世即位

フランツ2世の死後、フェルディナント皇太子が帝位を継ぎます(1835年)。フェルディナントは病弱だったことから世継ぎ候補から除外する事も検討されましたが、メッテルニヒが強引に彼を皇帝に推しました。

メッテルニヒが推し進める抑圧した体制をつらぬくのに、病弱なフェルディナントは意のままに動かしやすかったからです。

しかし1848年、パリで2月革命が起こると革命はたちまちヨーロッパ全土へと波及しウィーンでも革命が起こります。

学生や労働者たちが、検閲制度の廃止や出版の自由、そして自由憲法の制定を要求しデモを起こしました。

ナポレオンとの戦争後、ウィーンに平穏をもたらしたようにみえたメッテルニヒですが、警察権力にすがった旧時代的な支配は悪政と考えられていたんですね。

このウィーン革命の混乱時に、フェルディナントに代わって18歳のフランツが帝位を継ぎます。

フェルディナントのままでは国家の安泰は見込めないこと、フェルディナントの弟フランツ・カールには皇帝になる気も資質もないことを考え、最もふさわしいのがフランツでした。

即位後は、フランツ・ヨーゼフ一世と名乗ります。

ウィーン革命で、事実上ハプスブルク家の政権を決定していたメッテルニヒはロンドンに亡命します。メッテルニヒ追放に関しては、政敵コロブラートとゾフィーが仕組んだ陰謀とも言われています。

メッテルニヒがいなくなった宮廷でゾフィーは、「宮廷でただ一人の男」と評されるほど、多大な影響力を持つようになりました。フランツ・ヨーゼフの摂政のように政治へ介入していきます。

ウィーン革命を経験したゾフィーは、ハプスブルク家維持のためには君主制を守り抜くことが大切と考えていました。

ハンガリー嫌い

絶対君主を重んじたゾフィーは、自由や独立を求めてハプスブルク家にいつまでも盾突くハンガリー人が大嫌いでした。ゾフィーはハンガリー人に対し、徹底的な弾圧を与えた為、ハンガリー人から憎まれる事になります。

反対にハンガリーを愛したのが、フランツ・ヨーゼフ一世の妻エリザベート(シシィ)です。ウィーンとは違って開放的で情熱的ハンガリーに惹かれたのもありますが、同時に姑ゾフィーが嫌いなハンガリー人を贔屓にする事で対抗しようとしていました。

フランツ・ヨーゼフがエリザベートを選んでしまう

王族にとっての結婚は「私」ではなく「公」です。

特に政略結婚で領地拡大または平和の維持をつとめてきたハプスブルク家にとって、若き皇帝フランツ・ヨーゼフの皇后選びはとても重要でした。

ゾフィーがまず考えたのが、ドイツと連帯しドイツ連邦における指導的地位にオーストリアがとどまること。そして強大化してきたプロイセンに対抗しオーストリア優位を守ることでした。

最初の候補が、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姪にあたるマリア・アンナ王女。しかし彼女はすでに婚約者がいた上、プロイセン側はこの縁談は足かせになると実を結ぶことはありませんでした。

そして次の候補になったのが、バイエルン王国のヘレーネ・イン・バイエルン。ゾフィーの妹ルドヴィカの娘でした。

しかしお見合い後、バート・イシュルでフランツ・ヨーゼフ一世は、ヘレーネの妹のエリザベート(シシィ)に一目惚れしてしまいます。

まさかの出来事にゾフィーは反対しますが、今までゾフィーの言う事なら素直にきいてきたフランツ・ヨーゼフが、結婚に関してはシシィが良いと譲らず、ゾフィーもしぶしぶ認めます。

ミュージカル『エリザベート』では、シシィの母が「うちの娘には変わりないわ」と言い、ゾフィーが「まずい方よ!」とセリフを吐くシーンです。

家柄的には問題はありません。ゾフィーにとって問題だったのは、エリザベートの気質と「ハプスブルク家の結婚」への理解の無さだったと思います。

エリザベートは変わり者と言われた父親の影響で、のびのびと自由奔放に育ってきました。そのエリザベートにとって、監視付で全てが計画通りにすすめられるウィーンの宮廷はとても窮屈で、なじめるものではありませんでした。

もともとお見合い予定だった姉のヘレネと違って、お妃教育も受けていなかったので、皇后になる覚悟もなかったことでしょう。

クリミア戦争の激化、自治権を求める多民族など多くの問題を抱えるハプスブルク家にとって、その威光をみせるのはとても大切なこと。そのためには自分を押し殺して国に身をささげるのが義務

こう考えるゾフィーにとって、自分のやりたい事を自由に行おうとするエリザベートのふるまいはとても許容できるものではなかったはずです。このゾフィーの気持ちは、ミュージカル『エリザベート』の「♪皇后の務め」でも歌われています。

皇后の務めといえば、エリザベートが初めて妊娠した時、ゾフィーはエリザベートに一般公開している庭散歩し、世継ぎが生まれること国民にみせるように求めました。民衆の視線に晒されるのを嫌がったエリザベートでしたが、ゾフィーの指示に従います。

エリザベートとゾフィというと、嫁姑の争いといった面がよく注目されます。

行動を逐一監視され口出しされる
自分のやりたい事を禁止される
自分で産んだ子供を取り上げられる
長女の名前を勝手に「ゾフィー」と名付けられる

こんな事が起こり、16歳で嫁いだエリザベートからみたら、ゾフィーは怖くて意地悪な姑に思えたかもしれません。

書物によっては、ゾフィーが若くて美しいエリザベートに嫉妬した、と書かれているものもあるくらいです。

しかしゾフィーからすれば、皇帝夫妻の結婚は夫婦2人で幸せになるものではなく、あくまでもハプスブルク家繁栄のため。

嫁いできた時からハプスブルク家の為に生きてきたゾフィーにとっては、意地悪ではなく口出し手出しは良かれと思ってやっていたのではないでしょうか。

とはいえ、実の母親であるエリザベートが自分の子供に会えるのを監視付で1日1時間だけとしたこともあり、これは厳しすぎますね。

影響力が低下するゾフィー

1859年のイタリア統一戦争の敗北で皇帝とゾフィーに非難が集まり、ゾフィーの影響力が低下していきます。

1865年、子供たちの養育権をめぐりエリザベートが夫のフランツ・ヨーゼフに最後通牒の手紙を書きます。嫁姑の間に介入してこなかったフランツ・ヨーゼフですが、ここで折れて、エリザベートの要求が通ることになります。

宮廷内では、エリザベート周辺は皇后お気に入りのハンガリー人で固められるようになりました。

1867年にはゾフィーの次男のメキシコ皇帝マクシミリアンがメキシコで民族主義者らによって銃殺され、すっかり気落ちしてしまいました。長男のフランツ・ヨーゼフには厳しい母親でしたが、マクシミリアンを溺愛していたからです。

そして1872年、オペラ観劇の帰りに暑かったから涼もうとしてバルコニーでうたた寝し、肺炎になりそのまま亡くなりました。

病にかかったゾフィーを看病し最後をみとったのは、対立していたエリザベートです。ゾフィーの最期に2人は和解し、エリザベートは、「18年どうして憎しみ合うようになったのでしょう」と泣いたと言います。

誰に対しても厳しいわけではなかったゾフィー

ゾフィーというと自分にも他人にも厳しいイメージがあります。全ての人間に厳しかったわけではなかったようです。

臣下や政敵などをのぞき、

  1. 長男のフランツ・ヨーゼフ一世皇帝
  2. エリザベート
  3. 孫のルドルフ

この3人への厳しさはミュージカルのほか、本などでもよく取り上げられます。特にエリザベートへの当たりの強さは有名ですが、3人の共通点は、それぞれ皇帝、皇后、将来の皇帝(皇帝になる前にルドルフは自死)にある立場だったこと。

国を背負うものとして教育しなければいけないという義務感が強かったのかもしれません。(ただルドルフに関しては、ゾフィーよりも父のフランツ・ヨーゼフ一世の方が厳しかった)

一方、次男のマクシミリアンにゾフィーが甘かったのは有名な話です。真面目で重々しいフランツ・ヨーゼフに対して次男のマクシミリアンは陽気で軽快。このマクシミリアンをゾフィーは溺愛したそうです。

フランツ・ヨーゼフの真面目さが、幼い頃からゾフィーから受けた厳しい教育によるものとしたら、なんともやるせない気持ちになりますが、

のちにメキシコ皇帝となるも、オーストリア皇帝の継承権を持たないマクシミリアンに対しては、ゾフィーは、皇帝の母としてではなく、普通の優しい母親として接することができたのかもしれません。

また、孫でエリザベートの三女マリー・ヴァレリーのことも可愛がっていました。マリー・ヴァレリーは、エリザベートがゾフィーに引き渡すことなく初めて自分で育てた子です。推測ですが、ゾフィーもマリー・ヴァレリーを自分の監視下におく事が無かった分、義務感なしに相手ができるただ可愛いだけの孫だったのかもしれません。

マリー・ヴァレリーは、他の子どもたちと違って母親のエリザベートの愛を一心に受け、さらに祖母のゾフィーからも愛されました。愛情を受けたことは素敵なことだと思いますが、「ハプスブルクのため」母エリザベートから引き離され、結局エリザベートからはマリー・ヴァレリーほど愛されたと実感を持てなかったルドルフはじめ他の子どもたちのことを考えると、切なくもなります。

ゾフィーの恋

嫁いできて以来、自分よりもハプスブルク家を優先させてきたゾフィーですが、周囲を騒がすスキャンダルがありました。

ゾフィーがウィーンに嫁いだ当時、宮廷には6歳年下の美しい少年がいました。彼はナポレオン2世。あのナポレオンの遺児です。父ナポレオン失脚後、母マリー・ルイーズの実家であるハプスブルク家に引き取られライヒシュタット公爵フランツと呼ばれていました。

時の皇帝フランツ2世の孫だったライヒシュタット公は、ナポレオン残党による奪還を恐れのある「お荷物」であり、メッテルニヒの命令によりウィーン宮廷に監禁同然で暮らしていました。ナポレオンといえば2度もウィーンを占領し恐怖に陥れた男。その息子であるライヒシュタット公に対しては周囲も腫れものを触るようだったそうです。しかも母は新しい恋人と遠い領地に住み、息子に会いに来ることもありませんでした。

寂しく孤独に過ごしてきた少年に、優しく接したのがバイエルンから嫁いできたゾフィーでした。彼女も夫とうまくいかず、期待されていた子供もすぐにはできずに肩身の狭い思いをしていました。

疎外感を感じていた二人は瞬く間に仲良くなり、舞踏会やオペラ、バレエなど2人で出かけるようになり、当然2人の仲は噂になります。しかしゾフィーは動じる事はありませんでした。

ライヒシュタット公は結核で21歳という若さで亡くなります。彼が病に倒れた時、ゾフィーは献身的に看病をしていました。

ライヒシュタット公が亡くなる少し前に、ゾフィーは次男マクシミリアンを生みます。そのためマクシミリアンはライヒシュタット公の息子なのではないか?と噂になりました。

真相はわかりませんが、ゾフィーが亡くなった後、ゾフィーの遺骸は、カプツィーナー納骨堂内部の、ライヒシュタット公と息子マクシミリアンの遺骸の間に安置されました。

東宝エリザベート「ゾフィー役」について

「厳しさ」の理由がみえてくる皇太后

東宝版エリザベートのゾフィーは、優しさを厳しさで押し殺さないと、オーストリア皇后の母親という重責は担えなかった、そんな役柄だと思います。

自分の息子の命乞いをする母親に向かって「結構ね!」と冷たく突き放し、エリザベートからは子供を取り上げる

このような舞台前半だけみていると、ゾフィーの想いをくみ取ることは難しいのですが、2幕で「ゾフィーの死」を歌う事で、ゾフィーがどんな思いで皇太后という職務を果たしてきたかわかります。

歌「ゾフィーの死」

この曲は宝塚版にはない曲で、東宝版も2004年の再演で追加となりました。「ゾフィーの死」が入るかどうかで、ゾフィーの印象はかなり変わるのではと思います。

晩年フランツ・ヨーゼフ一世から「あなたのせいで結婚は破綻した」と責められ、「あなたの言う事を聞くことはない」と通告されてしまうゾフィー。

そして、「優しさより厳しさを 心殺してつとめたわ この意味がわかる時 あなたの国は滅んでしまう」 と、息子への母の愛を押し殺して、皇太后としての義務を全うしてきたと歌い亡くなります。

ゾフィーの行動には全て意味があり、息子の命乞いをする母親に向かって「結構ね」と突き放したのは、民族主義にゆらぐことなく帝国を維持するため。そしてエリザベートに皇后の務めを説き、子供を取り上げたのも、ハプスブルク家が未来永劫続いていくため。

結局、時代の流れには逆らえず、ハプスブルク家はのちに終焉を迎えることになりますが、もしゾフィーが皇太后でなければ、その終わりの時はもっと早かったかもしれません。

「ゾフィーの死」を歌う時、涙を浮かべたり、またはふっと最期に微笑みを浮かべる俳優さんもいます。息子に届かない想いを嘆いているのか、皇太后の務めから解放されて安堵しているのか…いろいろと想像を掻き立てられるシーンです。

ゾフィー関連書籍

エリザベート関連の書籍にはほぼ全て登場するゾフィーですが、特にご紹介したいのは次の本です。

帝冠の恋

ゾフィーのスキャンダルにもなった、ライヒシュタット公との恋の話です。

恋の話に留まらず、宰相メッテルニヒとの舌戦などゾフィーの孤軍奮闘した話にも引き込まれます。

個人的にはいつかミュージカル化してほしい作品の1つ。


帝冠の恋 (徳間文庫)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。