オーストリア皇后エリザベートの生涯を人物像や逸話と一緒にまとめました。エピソードに関連する観光地やミュージカル『エリザベート』の劇中で使用されている曲も入れてみました♪(完全な時系列ではないので、曲順は一部前後します)
エリザベート(シシィ)の生涯
ミュンヘンで生まれる
エリザベートの正式な名前は、エリーザベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ。Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach。愛称はシシィ。
1837年12月24日、クリスマスイブの日にバイエルン王国(現在のドイツ連邦南部バイエルン州)の首都ミュンヘンで生まれます。
父のマクシミリアン・ヨーゼフ公爵は、ヴィッテルスバッハ分家の長。母のルートヴィカはバイエルン王マクシミリアン1世の王女。
16歳まで開放的に育つ
エリザベートの父、マクシミリアン公爵はバイエルン王家の中でも傍系で、変わり者と言われていました。
経済観念は乏しいけれど教養も知識もある自由人。公爵の身分でありながらミュンヘンの宮廷や社交界には顔をほとんど出さず、馬で山や森を駆け巡っては狩りや釣りを楽しみ、時には農民に変装し、楽器を片手に町に繰り出すこともありました。
そんな父のそばで、通行人が投げるチップをもらう少女に扮していたエリザベート。
父のマクシミリアンは、自分に似たエリザベートの性格を愛し、娘に水泳や乗馬、狩りを教え、開放的な教育をします。エリザベートは運動神経が良く乗馬の技術に優れていました。
都会を嫌ったマクシミリアン公爵は、家族を連れ真冬を除き一年の大半をドイツバイエルン州のシュタルンベルク湖畔にあるポッセンフォーフェン城(Schloss Possenhofen)で過ごします。
きねちゃん
この館をエリザベートは「ポッシ」と呼んで愛着を持ち、16歳になるまで思いのまま山や野を駆けまわり、詩作に没頭し、自由を愛する女性へと育ちます。
♪愛のテーマ~愛と死の輪舞/Kein Kommen ohne Gehen / Rondo schwarzer Prinz
ポッセンフォーフェン城(Schloss Possenhofen):エリザベートが少女時代を過ごしたこの城は、内部の見学ができませんが、遊歩道から城の外観を見ることができます。
エリザベート皇妃博物館(Im Kaiserin Elisabeth Museum):エリザベートゆかりの品々展示されています。
姉のお見合い相手に一目惚れされた
エリザベート15歳の時、姉ヘレネ(19歳)のお見合い同席のため、ミュンヘンからオーストリアのザルツカンマーグートのバート・イシュルへと向かいます。
バート・イシュルは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世が愛した温泉保養地。多くの貴族や芸術家たちも避暑地として夏を過ごしてきました。
この姉のお見合いの席で、エリザベートは姉の相手であった20代前半のフランツ・ヨーゼフ1世に一目惚れされます。
エリザベートとヘレネの母ルドヴィカは、フランツ・ヨーゼフの母ゾフィーの妹。エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世はいとこ同士で、この時5年ぶりの再会でした。前回2人が会ったのはエリザベートがまだ10歳と子供だったので、美しく成長したエリザベートにフランツ・ヨーゼフ1世は驚いたのかもしれません。
当時のフランツ・ヨーゼフ1世は、姉のヘレネには見向きもせず、エリザベートばかり見ていたようです。ヘレネもエリザベートも美人でしたが、お妃教育を受けしとやかにふるまっていたヘレネよりも、気取りがなく天真爛漫なエリザベートに皇帝は魅力を感じていました。
ちなみにこの時バイエルン家は喪中だったため、エリザベート、母のルドヴィカ、姉のヘレネの3人とも喪服でした。
普段は母ゾフィーの言う事をきく従順な息子でしたが、この時だけは母に反抗しエリザベートを結婚相手に選びます。
フランツ・ヨーゼフ1世といえば、ヨーロッパ中の名門中の名門、ハプスブルク家の当主でした。
エリザベートの美貌ばかり注目されがちですが、フランツ・ヨーゼフ1世もエリザベートより小柄とはいえ美男でした。しかも勤勉で真面目! (※エリザベートの身長172~3cmに対し、フランツ・ヨーゼフ1世は165cm)
その彼に愛されウィーンの王宮へと嫁ぐ。
ここまでの話しだと、シンデレラストーリーに聞こえますが、エリザベートの不幸はここから始まったとも言えます。
エリザベートはフランツ・ヨーゼフ1世のプロポーズを受ける時、「あの方を愛しています。でもあの方が皇帝でさえなければ…」と口にしています。
♪ あなたが側にいれば/Nichts ist schwer
バートイシュル市博物館(Museum Der Stadt Bad Ischl):エリザベートとフランツヨーゼフ1世のお見合いの場所。ミュージカルではカイザーヴィラでお見合いをしているように見えますが、実際はこのバートイシュル市博物館(旧ホテル・オーストリア)で行われました。
聖ニコラウス教会(Pfarrkirche Bad Ischl):エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世が婚約の祝福を受けた教会
絶対権力者のゾフィーと宮廷生活を嫌った
婚約から8か月後、エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世は、1854年4月24日。ウィーンのアウグスティーナ教会(Augustinerkirche)で結婚式を挙げます。
エリザベート16歳、フランツ・ヨーゼフ1世23歳でした。
当時のウィーン宮廷では、フランツ・ヨーゼフ1世の母、大公妃ゾフィーが絶対権力者でした。上の絵は若き日のゾフィー。相当な美女だったようです。
フランツ・ヨーゼフ1世は、18歳の時に前皇帝で叔父のフェルディナント1世から王位を継ぎました。フェルディナント1世には子供が無く、その弟のフランツ・カールはフランツ・ヨーゼフ1世の父親でしたが、政治に関心のない頼りない人物で、フランツ・カールではなくフランツ・ヨーゼフ1世が即位します。しかし即位した当時フランツ・ヨーゼフ1世はまだ18歳と若く、皇帝の後ろ盾として権力を持っていたのが母であるゾフィーでした。
ハプスブルク帝国の威厳を保持するため、宮廷の権威としきたりを16歳の若い嫁に叩き込み「皇后教育」をしようとする姑のゾフィー。
結婚式の翌日からゾフィーに決められた命令で1日が始まることとなります。
きねちゃん
ゾフィー自身による監視、または皇后お付きの女官が逐一自分の行動を見張り、宮廷のしきたりから外れると厳しい叱責をゾフィーから受け、エリザベートは宮廷生活に嫌気がさし、次第に生気を失っていきます。
結婚式を挙げた4月24日から日にちも浅い5月8日、「私は牢獄で目を覚ました/手には鎖が重く/憂いは日々に篤い/自由よ、お前は私から奪われた」とエリザベートは詩に書くほどでした。
一方、儀礼を重んじる常識人のゾフィーにとってもエリザベートの自由奔放さは受け入れがたいものでした。その為、しきたりや伝統を教えるだけにとどまらず、夫婦生活にまで何かと干渉していきます。
頼みの綱のフランツ・ヨーゼフ1世はというと、結婚した1853年にはクリミア戦争が激化し、その対処に追われエリザベートのことを愛しながらも思いやる余裕もなく、エリザベートは孤独を深めていきます。
♪最後のダンス/Der letzte Tanz
♪皇后の務め/Eine Kaiserin muss glaenzen
♪私だけに/Ich gehoer nur mir
シシィ博物館(Sisi Museum):ホーフブルク王宮内にある、ハプスブルク家の皇妃エリザベートが使用した愛用品や肖像画をコレクションとして展示している博物館。。美しさをキープするための運動器具、戴冠式用のドレスのレプリカ、実際に使用した銀食器、豪華な燭台などの数々を見ることができます。
アウグスティーナ教会(Augustinerkirche):ホーフブルク王宮敷地内にある、ハプスブルク家の結婚式が行われた教会で、エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世もここで結婚式を挙げました。ミュージカルでは、結婚式でトートが高笑いをしています。
ラクセンブルク宮殿(Schloesser von Laxenburg):エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世が新婚生活をおくった館。ルドルフ皇太子もこの館で生まれます。♪皇后の務め、♪私だけにが歌われる舞台です。
出産するも子供を皇太后に奪われる
結婚した翌年、1855年に第一子・第一皇女を出産します。しかしゾフィー皇太后に奪われた挙句、皇太后と同じ「ゾフィー」と名付けられ、エリザベートは反宮廷的な態度をとるようになります。
その翌年の1856年には第二子・第二皇女ギーゼラ出産。しかし長女同様皇太后に取り挙げられてしまいます。
ゾフィー皇太后は、奔放な性格のエリザベートには子供の教育を任せられないと、実の母親であるエリザベートが自分の子供に会えるのを、監視付で1日1時間だけと制限していました。
そのためエリザベート皇后のゾフィー皇太后への反感が募り対立が激化します。
フランツ・ヨーゼフ1世は、これまで嫁と姑の対立に干渉してきませんでしたが、エリザベートはとうとう皇帝を引っ張り出す事に成功。
次女ギーゼラの部屋を、エリザベートの部屋のそばにするようフランツ・ヨーゼフ1世が皇太后に手紙を書きます。
♪娘は何処?
♪私の敵
♪結婚三年
♪結婚四年目
(結婚生活の様子/Stationen einer Ehe)
旅行中に第一皇女ゾフィーが病死
1856年エリザベートは皇帝と共にイタリアを4ヶ月間訪問。娘のゾフィーを同行させます。この後、夫妻はすぐにハンガリーを訪問し(1857年)初めてブダペストを訪れます。
この旅にエリザベートは皇太后の反対を押し切って娘2人を同行させますが、2歳の第一皇女ゾフィーが病死してしまい、翌日ウィーンへ戻る事に。
翌年1858年エリザベート20歳で第三子・皇太子ルドルフを出産しますが、皇太后ゾフィーの監視下に置かれることとなります。
♪闇が広がる/Die Schatten werden laenger
「美」に目覚めスーパーモデル体型を維持
エリザベートの人気が高い理由の一つに「美しい容姿」が挙げられます。
エリザベート本人も自らの美しさが武器になると自信もち、美容とダイエットに熱心でした。
当時のヨーロッパ宮廷一の美貌と言われ、バイエルンの薔薇とも称えられたエリザベートの姿は絵画にも残されていますが、特に有名なのがドイツの画家、フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルターが描いた、星型の髪飾りをつけたエリザベートでしょう。
きねちゃん
星型の髪飾りは「シシィの星」Sisisternと呼ばれるもので、ヴィンターハルターの肖像画では、27個もの「シシィの星」を髪に飾ったシシィが描かれています。
この髪飾りは、夫である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からの贈り物です。若き日のエリザベートがモーツァルトのオペラ「魔笛」を鑑賞した際、夜の女王が身に着けていたこの星飾りが気に入り、その様子をみた皇帝が宝石商に発注して作らせたものでした。
エリザベートは、卵、乳製品、果物のみの食事療法をはじめ、1860年(22歳)には平行棒や吊り輪などを備えてた体操室を作ります。身長172~3cm、ウエスト50cm、体重43~47kgとスーパーモデル並みの体型を生涯にわたってキープしていました。
くるぶしまで届く髪は、手入れに毎日3時間かけ梳かし、洗髪の際は30個の卵黄とコニャックを使っていたといいます。
一方アイスクリームやクリームタルトなどの甘いお菓子が好物で、それとひきかえに食事療法も運動も度を越したものとなり、晩年はリウマチや座骨神経痛に苦しむ事になります。
また美容に熱心なあまり侍女を平手打ちをするほど激しい一面もありました。
きねちゃん
歯並びの悪さがコンプレックスだった
エリザベートは美しい美貌の持ち主ですが、姑のゾフィーからは「歯が黄色く、歯並びが悪い」と言われていました。そのため人前では欠点で目立たないよう口元を噤み、ほとんど話さず、話すときは扇子で口元を隠すようにしていました。
♪私だけに(リプライズ)
♪私だけに(三重唱)
/Ich gehoer nur mir
ハンガリーを愛した
絶対君主性を重んじる皇太后ゾフィーは、独立と自由を求めてオーストリアに楯突くハンガリーを嫌っていました。
反対にエリザベートは父親のマクシミリアン公の影響から、王族出身でありながら君主制を否定する共和制(君主のいない国家形態)寄りのものでした。また婚約期間中にオーストリアの歴史を習った家庭教師がハンガリー出身であったことが影響し、ハンガリーに共感と憧れを抱いていました。
ウィーンの堅苦しさを嫌うエリザベートは、馬が群れをなして走る大草原や情熱的なハンガリーへと気持ちを傾けていきます。
側近をハンガリー人でかため、ブタペストへ訪れる際は、ハンガリー語で住民に話しかけ、ハンガリーの人々からも高い人気を得ていました。
1857年に初めて訪れたハンガリーのデブレツィンで熱狂的に迎え入れられますが、ミュージカル『エリザベート』でも、三色旗のドレスを着たシシィを民衆が好意的に迎えているシーンで描かれています。
ハンガリーが自治権を得るのを助けた
ハプスブルク帝国の支配下にあった民族で一番抵抗が激しかったのがハンガリーでした。ハプスブルク帝国が戦争でイタリアの多くを失い、プロイセンとの戦争でドイツをから締め出しをくらったことで威信が低下したのち、ハンガリーでは自治権を求めた運動が活発になります。
ハンガリーの領土を失いたくないフランツ・ヨーゼフ1世と、独自の政府を擁立したいハンガリー側で緊張が走りますが、このとき潤滑油として働いたのがエリザベートでした。
1867年オーストリア=ハンガリー二重帝国発足。フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートは、ハンガリー王・王妃としてマーチャーシ教会で戴冠式を行います。
オーストリア皇帝がハンガリー国王が兼任しますが、それぞれの政府には首相が任命されました。国王は1人、首相は2人です。それぞれの首相の元、内閣と議会が置かれ、ハンガリーは自治権を得ました。
政治には無関心なエリザベートでしたが、フランツ・ヨーゼフ1世にハンガリーに自治権を与えて欲しいと働きかけ、皇帝はハンガリーとの協調を決意しました。
ハンガリーが独立する第一歩となったこの出来事に、ハンガリー人は感謝を忘れる事なく、ブタペストのドナウ河沿岸にはエリザベートの名にちなんだ「エリザベート橋(ハンガリー語:エルジェーベト橋 )がかけられています。
一方、エリザベートの政治的な動きはウィーンの宮廷との溝を深くし、彼女はますます宮廷を避けるようになります。
このオーストリア=ハンガリー二重帝国発足の翌年、エリザベートは第四子・第三皇女マリー・ヴァレリーをハンガリーのゲデレー城で出産。皇太后ゾフィーではなく、初めてエリザベート自らの手で育てた子供で、母の愛を一心に注ぎました。
♪エーヤン/Eljen
♪私が踊る時/Wenn ich tanzen will
ゲデレー宮殿(Grassalkovich-kastély):オーストリア=ハンガリー二重帝国八足のち、フランツ・ヨーゼフ皇帝夫妻の居城となります。
グドゥルー宮殿(Godolloi Kiralyi Kastely):ハンガリーが「オーストリア=ハンガリー二重帝国」になったのち、政府からハンガリー国王を兼任したフランツ・ヨーゼフ1世と皇后のエリザベートに、夏の離宮として寄贈された宮殿。エリザベートは特にこのお城が気に入り、頻繁に訪れていました。
エリザベート橋(Erzsébet híd):ブダペストのドナウ川沿岸で、ブダ地区とペシュト地区を結ぶ皇后エリザベートにちなんだ橋。
旅から旅へ・・・
1860年10月、エリザベートの健康状態が急激に悪化します。原因は過激な運動や食事療法、または皇太后ゾフィーとの確執とも言われますが、侍医に南への転地療養をすすめられ、スペインの南、マデイラ島へ出発。
その後、英国領のコルフ島(現ギリシャ)に到着し、迎えにきたフランツ・ヨーゼフ1世と船上で再会ししウィーンへ戻りますが、4日後には咳が出始めてしまいます。
そのため再びコルフ島へ戻り長期滞在。その3ヶ月半後、再びフランツ・ヨーゼフ1世はコルフ島にやってきます。エリザベートは帰国の条件として、義母のゾフィー皇太后の意を受けた女官長エステルハージ伯爵夫人の解雇を要求し、皇帝はそれを認めます。
エリザベートはすぐにはウィーンへ戻らず、ヴェネツィア、バート・キッシンゲン、ポッセンホーフェンの実家でくつろいだ後、1年2ヶ月ぶりにウィーンへ帰ります。
この時は、フランツ・ヨーゼフ1世から帰国祝いにサラブレッド1頭を送られ、2万人の市民による松明行列に迎えられました。
しばらく夫婦関係は良好でしたが、堅苦しい宮廷生活を嫌い、その後もエリザベートは旅を繰り返します。
エリザベートはコルフ島に何度も滞在し、生前「出来ればコルフ島に埋葬してほしい」と伝えていました。
ウィーンでエリザベートと落ち着いて夫婦生活を送ることができないフランツ・ヨーゼフ1世ですが、彼自身の状況はどうだったのでしょうか。
当時、ヨーロッパ情勢は混迷しており、皇帝はその対処に追われていました。皇帝の座についた18歳、フランツ・ヨーゼフ一世はパリ2月革命から飛び火したウィーン革命の後処理に追われます。エリザベートと結婚した1853年にはクリミア戦争が激化。それまで協定を結んでいたロシアとの関係を解消します。またフランス皇帝ナポレオン3世にイタリア北西部のロンバルディアなどを奪われ、プロイセンからも立て続けに戦争をけしかけられ、オーストリアはドイツ連邦から外される事となります。
ミュージカルでは、宮殿の居室でフランツ・ヨーゼフ1世がエリザベートの部屋のドア越しにフランスとの外交で大変な思いをしていると語り、エリザベートから最後通告されるシーンがありますが、外交の大変さを語る背景には、帝国をとりまく国際情勢の厳しさがありました。
アキレイオン/アヒリオン宮殿(Achilliom Palace):1891年にエリザベートが建てた夏の離宮。ギリシャ文化に造型が深くホメロスに傾倒していたシシィは、ギリシャ神話の英雄アキレスの名前にちなみ「アキレイオン」と名付けた宮殿を建築しました。シシィゆかりの品々が展示されています。ただ完成から2年後にはシシィはこの館にあきてしまい、買い手を求めるようになります。
精神病院への訪問と死の誘惑
エリザベートは何度か精神病院を訪れていました。
実家のヴィッテルスバッハ家には精神疾患を持つ人間が多く、自分も同じ血筋をひいている事を恐れていたからと言われています。
ヴィッテルスバッハ王の2人の息子、オットーとルートヴィヒ2世も精神を病み、エリザベートと長年に渡ってお互いに愛情を持ち続けたルートヴィヒ2世は奇行を繰り返したのち幽閉され、湖で自ら命をたちます(暗殺されたという説もあります)。
また、エリザベートは「死」に対して強い興味を抱き、毒殺やしゃれこうべなど死に関するコレクションをしていました。
彼女をとりまく環境や生来の気質、そして幼少の時に淡い恋心を抱いていた少年2人を亡くしていた事が理由に挙げられるかもしれません。
ある時、三女のマリー・ヴァレリーに「ベッドに横たわっていると詩人の魂が自分の魂を引き抜きたがっている感覚を覚えた」と手紙を送っています。
ここでいう詩人とはエリザベートが崇拝していたユダヤ詩人のハイネのこと。エリザベートはドイツの詩人ハイネを崇拝していました。
きねちゃん
ちなみに、トートのモデルは詩人のハイネ。ウィーン版のミュージカル『エリザベート』では、トート役は詩人のハイネにならって金髪が基本です。
ユダヤ人の家庭に生まれたドイツの作家、詩人で批評家。ドイツの反動的政策を痛烈に批判し危険視されていました。しかしオーストリア皇后でありながら君主制には懐疑的だったエリザベートは、ハイネを「精神上の愛人」として慕っていました。
♪魂の自由/Nichts, nichts, gar nichts
皇太后ゾフィーの死
1872年、皇太后ゾフィーが67歳で死去。エリザベート34歳の時でした。
18年もの長い間深く対立し、決して皇太后ゾフィーを許さないと女官に話していたエリザベートでしたが、ゾフィー最期の瞬間まで片時も離れなかったのはエリザベートだけでした。
エリザベートは後年、ゾフィーの行為は全てハプスブルク帝国の利益のためで悪意からではなかった、と語っています。
ミュージカルでは、息子フランツ・ヨーゼフ1世から拒絶され、帝国の滅亡を嘆きながら亡くなっていくゾフィーの様子が演じられています。
夫に愛人をお膳立て
エリザベートを愛したフランツ・ヨーゼフ1世ですが、何人か愛人もいたようです。
中でも有名なのが、カタリーナ・シュラットという女優でした。
1885年、ロシア皇帝夫妻とオーストリア皇帝夫妻で会見した際、オーストリア側は寸劇の上演を企画していました。その劇に出演していたカタリーナ・シュラットをうっとりと見ているフランツ・ヨーゼフ1世の表情に気づき、エリザベートは2人の仲を取り持ちます。
でも何故、夫に愛人をあてがうような事をしたのでしょうか。
ウィーンに落ち着くのが嫌でヨーロッパ各地を転々としていたエリザベートは、自分が夫の精神的な支えになれないので、代わりにカタリーナ・シュラットに支えてもらおうと思ったからです。
フランツ・ヨーゼフ1世とカタリーナ・シュラットはエリザベート公認の交際となり、時には3人で楽しいひと時を過ごした事もあったようです。
皇太子ルドルフの死
かつて皇太后ゾフィーに取り上げられた息子のルドルフ。ルドルフはゾフィーと皇帝によって軍国主義的に厳しく育てられていましたが、ルドルフ7歳の時にエリザベートは自分の手に取り戻し、教育方針を一転させます。
エリザベートは、ルドルフの新しい教育係に進歩的な思考を持つヨーゼフ・ラトゥール・フォン・トゥルンベルクを選んだため、民主主義や平等主義の思想がルドルフに新しく吹き込まれるようになります。
そのためルドルフは、時代遅れで保守的な父親に反感を持つようになりました。一方、フランツ・ヨーゼフ1世はルドルフを帝国崩壊を招く危険分子とみなし、政治の舞台から遠ざけたため、父と子の関係は亀裂してしまいます。
ルドルフは母親のエリザベートに対しては自分と似ていると共鳴を覚えるのものの、エリザベートは旅を続けていたためウィーンには不在の事が多く、愛情や救いを求めることができませんでした。
1889年、皇帝が息子ルドルフに「お前は後継者に相応しくない」と伝えるのを従僕が耳にしています。
その4日後の1889年1月。ウィーン郊外のマイヤーリンクでルドルフは自殺を図ります。当時30歳。17歳の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラとの心中でした。
彼女との愛の成就するために心中したーー映画や舞台ではそう扱われていますが、実際のところは父親との確執や心身の病、別の娼婦に心中を持ちかけていた記録から、一緒に死ぬのは誰でもよかったのではないか、とも言われています。また部屋が荒らされていた事から、暗殺説もあり真相は不明です。
ルドルフ死後、エリザベートは錯乱状態に陥り、深い後悔に苛まれ、喪服しか身に着けなくなります。
♪僕はママの鏡だから/Wenn ich dein Spiegel waer
♪マイヤーリンク/Mayerling-Walzer
♪死の嘆き/Totenklage
夫から愛され続けていた
ウィーンの宮廷を避けるように旅を重ねるエリザベートを夫のフランツ・ヨーゼフ1世は愛し続けます。
皇帝は倹約家で皇帝服がほつれても買い替えずに着続けたといいますが、一方エリザベートは美への執着と放浪癖に莫大な費用をかけていました。
公務を放棄し出費の多いエリザベートを非難する声が宮殿からも国民からも挙がるのですが、皇帝はエリザベートの旅行先に手紙や花束、資金や必要な物を送り続けています。
馬術習得のためのイギリスへの渡航費用
ハンガリーに専用の馬上を建設
大型ヨット「ミラマール号」を購入
ウィーン郊外の森に新しい別荘、ヘルメス・ヴィラを建築
などなど、エリザベートの為に出費を惜しみませんでした。
そしてウィーンの宮廷にとどまる事のないエリザベートの肖像画を書斎に飾り、彼女の存在を身近に感じるようにしていたそうです。
フランツ・ヨーゼフの気持ちを想うとせつないですね。
ミュージカル『エリザベート』を観劇された方なら、夫婦で歌う♪夜のボート/Boote in der Nacht という曲が、心に残っているのではないかと思います。
この曲の舞台は、夫婦一緒に過ごした1895年のコート・ダジュールのマントンのマルタン岬です。
2人が出会い恋に落ちた若き日の♪あなたが側にいればと全く同じメロディ―で、晩年の2人のすれ違いを歌う♪夜のボート。
喜びと悲しみ正反対の感情を、同じメロディ―にのせることで、切なさがより一層感じられる曲となっています。
マルタン岬:南フランス、コート・ダジュールのマルトンにある岬。皇帝夫妻はこの地に2度滞在しました。
ジュネーヴで暗殺
1898年9月10日。ジュネーヴのホテル・ボー・リヴァージュに滞在していたエリザベートは、13時40分発の蒸気船に載るために、レマン湖のモンブラン埠頭へ向かう途中、無政府主義者のルイジ・ルキーニに暗殺されます。(エリザベート享年60歳)
イタリア人のルキーニは政治思想があったわけではなく、王族ならだれでも良かったとも話しています。
エリザベートは葬送列車でウィーンへ帰還。カプツィーナ教会に埋葬されます。
エリザベートの突然の訃報を聞いたフランツ・ヨーゼフ一世は、「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と泣き崩れたと伝えられています。
エリザベート(シシィ)年表
年 | シシィ年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1837 | 0歳 | 12月24日 ミュンヘンで生まれる。父親バイエルン公マクシミリアン、母親バイエルン王女ルドヴィカ |
1848 | 10歳 | フランツ・ヨーゼフ1世、オーストリア皇帝に即位 |
1853 | 15歳 | 8月16日 姉のヘレネとオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフお見合いのため、バート・イシュルへ。その席で皇帝に一目ぼれされる 8月19日 エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世婚約 |
1854 | 16歳 |
4月24日 ウィーンのアウグスティーナ教会で結婚式 4月29日 ウィーン郊外のラクセンブルグ城(夏の宮殿)で新婚生活が始まる 6月 皇帝とボヘミア・モラディアへ公式訪問。しかし体調不良になりエリザベートだけウィーンに戻る(妊娠が判明) |
1855 | 17歳 | 3月5日 第一子、長女のゾフィーを出産。しかし皇太后に取り上げられる |
1856 | 18歳 |
7月15日 第二子、次女ギーゼラを出産。しかしこちらも皇太后に取り上げられ、エリザベートとゾフィー皇太后の対立が激化 9月1日 皇帝とオーストリア南部を訪問 11月17日 皇帝とイタリア訪問 |
1857 | 19歳 | 5月 皇帝とハンガリー訪問。子供2人とも連れていくが旅行中に長女ゾフィー病死 |
1858 | 20歳 | 8月21日 皇太子ルドルフ出産。しかし息子は皇太后の監視下に置かれる |
1860 | 22歳 |
6月 無理なダイエットがたたり神経症が悪化。ポッセンフォーフェンで静養 8月 ウィーンに戻る 10月 健康状態が悪化。この頃フランツ・ヨーゼフ1世に浮気の噂がでる 11月 マディラ島に療養へ出発 |
1861 | 23歳 |
4月 マディラ島を離島し5月にコルフ島へ到着 5月 迎えにきたフランツ・ヨーゼフ1世と伴にウィーンへ戻るが体調悪化 6月 コルフ島へ到着 11月 ベネツィアで家族水入らずで過ごす |
1862 | 24歳 |
6月 バート・キッシンゲンで療養 8月18日 1年2か月ぶりにウィーンへ帰還 |
1863 | 25歳 |
正式にハンガリー語を習う 1月 フランツ・ヨーゼフに精神病院を一緒に訪問するよう頼む 7月 皇太子ルドルフが木から落ちて一時意識不明になるがシシィには知らされなかった |
1864 | 26歳 |
3月 ルートヴィヒ2世が新バイエルン国王になる 初夏 バート・キッシンゲンでルートヴィヒ2世と再会し急接近 7月 湯治療養を終えウィーンへ帰還 11月 ハンガリー人のイーダ・フェレンツィを購読係に採用。のちにシシィ暗殺まで34年間、側近として仕える |
1865 | 27歳 | 7月 フランツ・ヨーゼフに最後通牒の手紙を書き、子供の教育や自らに関する決定権を得る |
1866 | 28歳 |
エリザベートの側近に8人のハンガリー人の女官が仕える 1月29日 皇帝とハンガリーへ出発 2月 皇帝とハンガリー議員代表団の間に緊張感が走る中、シシィが潤滑油の役目を果たす 6月~7月 オーストリア・プロイセン戦争勃発。オーストリアが敗退する 8月 プラハで和帝協定調印。でオーストリアはヴェネツィアを失う |
1867 | 29歳 |
2月 オーストリア・ハンガリー二重帝国発足 6月 ブタペストのマーチャーシ教会でハンガリー王位の戴冠式 8月 ザルツブルクでフランス皇帝ナポレオン3世と皇后ウージェニーと会見 |
1868 | 30歳 | 4月22日 三女マリー・ヴァレリーをハンガリーで出産 |
1872 | 34歳 | 5月28日 皇太后ゾフィー死去(享年67歳) |
1873 | 35歳 |
4月 次女ギーゼラがバイエルン公レオポルドと結婚 5月 ウィーン万国博覧会開幕 12月2日 フランツ・ヨーゼフ在位25周年祝賀 12月3日 ウィーンを離れる |
1874 | 36歳 |
1月 ルートヴィヒ2世の母マリアと精神病院訪問 7月 狩の馬術を習得するためイギリスへ行き、ワイト島やロンドンに滞在 ヴィクトリア女王の訪問を受ける |
1875 | 37歳 | 7月 三女マリー・ヴァレリーを連れフランスへ |
1876 | 38歳 |
3月 馬術の練習で再びイギリス旅行。騎乗狩猟大会に参加 4月 ウィーンへ帰還 9月 フランツ・ヨーゼフ1世がシシィのために購入した豪華ヨット「ミラマール号」でコルフ島へ |
1877 | 39歳 | ルドルフ19歳になり成人する |
1878 | 40歳 | 皇太子ルドルフを連れてイギリス訪問 |
1879 | 41歳 | 2月 アイルランドで馬術訓練。翌年も訪問 |
1880 | 42歳 | 3月10日 皇太子ルドルフとベルギー王女・シュテファニー婚約 |
1881 | 43歳 |
イギリス、フランスへ。乗馬を楽しむ 5月10日 アウグスティーナ教会で皇太子・ルドルフがベルギー王女・シュテファニーの結婚式 |
1882 | 44歳 |
オーストリア、ドイツ、イタリア三国同盟 シシィの趣味が乗馬から競歩へと移る |
1884 | 46歳 | 4月 坐骨神経悪化のため療養旅行へ |
1886 | 48歳 |
シシィは自分の不在時、夫を慰める代役として女優のカタリーナ・シュラットと引き合わせる 5月 夫婦でフランツ・ヨーゼフがエリザベートの為に建てたヘルメスヴィラへ 6月 バイエルン王ルートヴィヒ二世溺死 |
1887 | 49歳 |
春 ウィーンの精神病院訪問 7月 ハンブルグにいるハイネの妹を訪問。その後イギリスへ渡ったのち、ギリシアの島々へ |
1888 | 50歳 |
皇太子ルドルフ、ハンガリーの野党政治家に会うなど反政治的な行動をとる 11月 コルフ島に別荘建築の計画をたてる 11月15日 父マクシミリアン公死去 |
1889 | 51歳 |
1月30日 皇太子ルドルフ、マイヤーリンクで男爵令嬢マリー・ベッツエラと心中(享年30歳) 2月5日 ルドルフ葬儀。シシィは欠席 2月9日 ルドルフが埋葬されているカプツィーナ教会礼拝堂の墓を訪れる |
1890 | 52歳 |
5月 姉のヘレネ死去 7月31日 三女マリー・ヴァレリーとトスカーナ大公フランツ・サルヴァトール結婚 |
1891 | 53歳 | 10月 コルフ島の別荘アキレイオン荘が完成 |
1892 | 54歳 | 1月26日 母ルドヴィカ死去(享年84歳) |
1893 | 55歳 | アキレイオン荘に飽き、売却を検討しはじめる |
1895 | 57歳 | 1~2月 コート・ダジュールのマルタン岬にフランツ・ヨーゼフと滞在 3~4月 コルフ島に滞在 |
1898 | 60歳 |
5~7月 バート・イシュル滞在 9月9日 ジュネーヴのホテル・ボー・リヴァージュ滞在 9月10日 無政府主義者のルイジ・ルキーニに暗殺される |
参考文献
エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女 /塚本 哲也(著)
エリザベート 美しき皇妃の伝説 /ブリギッテ・ハーマン (著)、中村 康之 (翻訳)
「エリザベート」とクンツェ&リーヴァイの世界
レプリークビス 1冊まるごとエリザベート
エリザベートをたどる ハプスブルクを訪れるウィーン
過去ミュージカル『エリザベート』プログラムなど
エリーザベト―美しき皇妃の伝説〈上〉